2011年02月21日
テレビとストレス
例えば
久しぶりに会った友達と
楽しくお茶をしたり
今ここでない世界の誰かに思いをはせたりすることは
自分の感情とうまく付き合いながら
相手のことを簡単に思いやれたりする。
例えば
海の向こうからやってきた食べ物や衣類に
毎日お世話になってるけれど
それを作った人や運んできた人の生活のことまでは
関係ないような気がしてしまったりする。
ある意味「無責任」でいられる「距離感」
というのがこの世にはあるんだろうなって思う。
それとは逆に
家族だったり
友人だったり
恋人だったり
仕事仲間だったり
誰でもいいんだけれど
一つ屋根の下
一緒に食卓を囲む相手となると
ぐっとその「距離」が近くなってきて
「無責任」ではいられない部分がでてくる。
私は家族との関係において
常々 「社会の縮図みたいだな」と感じている。
社会の縮図であり、世界の縮図でもある。
人間は、身近なところから
すべてを学ぶことが出来るなと、
さんざ旅をしてきてなんだけど、
ああ、ここにこそ。か。と思ったりする。
「隣人を愛しなさい」
とマザーテレサは言った。
インドでマザーハウスのボランティアに行ったことがあるけれど、
そこからもいろんなことを学んだけれど、
結局のところ、マザーが教えてくれたことの意味が
実家で家族と暮らすことにより
しみじみと分かるようになってきた。
隣人との人間関係は
お互いの精神状態とのバランス
好きなものと嫌いなもののバランス
思いやり
シェアのこころだったり
簡単に日本人的に言うと
「和」のこころ が
色濃く目の前に日々現れてくる。
まるで鏡のように
自分の行いがすぐ手にとって現れてくるので
びっくりすることもある。
昨夜
夕ご飯のときに
久しぶりに母親と喧嘩になってしまった。
喧嘩になる前触れというのは
なんとなく感じてはいた。
私がではなくて
母が私に対して、「何か言いたげ」な表情とオーラを出していた。
その「何か」を、ぐっと我慢しているな。というのを
ここ数日いくつかのタイミングで私は感じていた。
「なんだろう。私何かしたかな?」
部屋が散らかっていたのをそのままにして
仕事へ行ったことだろうか。
布団を干したままにして
日が暮れてから帰ってしまったことだろうか。
それとも、、、
色々怒られそうな原因の種は私をいくつか持っていた。
でも、それもそうなんだけれど、
今回はそれとは少し違う種だった。
夕飯のとき、母がテレビが赤ちゃんに及ぼす関係についての番組を見た
という話になって、
私が
「どういう内容だったの?」
と聞いた。
元々私はテレビを必要としていないタイプで、ほとんど見ない。
たまにおもしろそうな内容の番組とかがあれば、タイミングがよければ見る程度。
ちなみに今月はまだ一度もテレビを見てないない。
なければないで、全然結構。
テレビに対して執着がないという理由と、赤ちゃんや子供にとって、テレビはあまり目やカラダに良くないんじゃないかというのもあって、あうらからもテレビを遠ざけていた。
私は生まれて8ヶ月の人間に
どう考えてもテレビは必要とは思えなったし。
タイからあうらを連れて帰ってきたばかりの頃なんて
タイで電気が少ししかない生活をしていたもんだから
家がまぶしくて仕方なくて、薄暗い部屋にわざわざしてもらったりしていた。
(今はもう、普通に暮らしているけれど。)
日本で普通に暮らす親にとっては、
そういう娘の行動は「変」なものに映ってしまっていたようだ。
「別に親と一緒に会話をしたりしながら見る分にはいいみたいよ。」
テレビのおよぼす影響の番組を見た母から返ってきた返事だった。
「ふーーん。でも、うちはちょっとテレビが大きすぎるし、ニュースとかのカメラマンのフラッシュとか
連続で映ってるときとか気をつけないとだね。私でもまぶしすぎるよ。気持ち悪くなるもん」
と私。
「そうかなあ?気にしすぎじゃないの?」
と母。
うちのリビングにあるテレビは大きい。
これは父が生前買ったもの。
目が不自由だった父は、大きい画面でないとよく見えなかった。
一日中マッサージの仕事をして、特に外出も出来なかった父の
唯一の楽しみの一つが昔からテレビだった。
テレビは父の大事な娯楽であり、そして情報源でもあった。
よく私は父に言われた。
「ニュースをちゃんと見たほうがいい。世界で何が起こってるか、ちゃんと知っておいたほうがいい」
父は、よくニュースを見ていた。
政治にも詳しかったし、世界で起きている色んな問題にも詳しかった。
だけど、なんでいつも夕ご飯のときに
誰かが殺された話や、世界の悲しいニュースや
政治家の口論やらを見なくてはならないのかは私は疑問だった。
私は今ここにあるご飯を
おいしく食べたり、
今日あった出来事をみんなで楽しく話したりすることのほうが
大事だと思っていた。
「テレビがうるさくて嫌」
私はよくそう思った。
でも父にとっては
一日仕事をして、ニュースの時間がちょうど夕ご飯の時間と重なってるし、
世界と繋がるためのひとつの方法でもあったのだし、
ショウガナイことだったんだと今は思っている。
ひとつ屋根の下
その人の好き嫌いとのバランス
自分を優先させるのか
相手を思いやるのか
そこのバランスがどうもまだまだ
私には出来ていなかった様だ。
どこでどう折り合い点を見つけていくかが
家族のあり方であり、
社会とのあり方であり、
世界とのバランスでもあるのだと思う。
今回の母との喧嘩も そこ だった。
「お父さんが欲しいって言ってがんばって買ったテレビを、今度はあんたが必要ないって言って、
お母さんだって見たい番組あるのに、あんたがあうらには見せないでって言うし、
お母さん、自分の家にいるのにどうしてこんなに気を遣かわなくちゃいけないのよ?
息がつまる。さんざ我慢して生きてきたんだから、もう我慢して生きるのはうんざりなのよ。」
さっきまでおいしかったごはんの味が
まったく消えていくのを感じた。
どよーーーーん。
そうか、、、。
そうだよね。
その大きなテレビが家に来たのは
私がインドの旅中だった。
インドは、裕福な家以外は、
小さな小さな日本の昔チャンネルを手で回すようなテレビみたいので、
近所の人を集めてみんなでわいわいとテレビを見てるような感じである。
それが日本の自分の家に帰ったら、
めちゃめちゃ大きな薄型の最新のテレビがどどーーんとリビングにあるのを見て
腰を抜かしたのを覚えている。
「これ、いくらしたの?!」
すごい金額だった。
私が半年間インドにいた生活費よりも全然高かった。
でも、旅に行けない父にとって、
大きなテレビで映画を見たり、ニュースを見たりするのは
最高の贅沢であり、癒しの時間だったのだろう。
でも私とは、そこの感覚が合わなかった。
ニュースの多くが 海外の恐ろしい出来事や起こっているデモやら災害
ばかりを流すものだから、長野から何十年も離れた事のない父や母にとっては
「海外は怖いところ」というイメージが強い。
私が実際、歩いてきたインドと、両親がテレビで見た「インド」は
あきらかに違っている。
私は小さい頃、テレビは嘘をつかないと思っていたけれど、
テレビは嘘をつきまくっている。と大人になってから知った。
もちろん事実も写している。
いい番組もあると思う。
雑誌でもテレビでもメディアでも人との関係においても、
やはりすべてをまるまる信じてしまうというのは
気をつけなくてはならない。
情報にただただ、流されないこと。
流されやすい私にとっては大事な練習だ。
そして色々な情報ばかりに目を白黒させるのではなくて、
自分のまわりに起こってることや、
自分の体験している今ここ、
自分が興味のあるファクターと 「的」をある程度絞って
情報に溺れないことが大事だとなとも思っている。
窓口を広げすぎると
結局 すべてが中途半端で終わっていくだけな気がする。
自分の人生の学びにおいて必要なことは
必然と自分の足元に転がっている。
そうやって私は自分自身の生活スタイルをシフトしてきた。
でも一方で、そういうある意味テレビ好きな両親からしてみてれば
私のテレビへの気遣いはストイックなものであり、
迷惑な話であったのだろう。
父も母もやさしい人なので、私の「テレビは見ない」という気持ちを
優先させてくれていたのだった。
しかし、両親は見たいのをしぶしぶ我慢していただけであって、
私は「テレビ」というものを彼らから遠ざけ、
「見ない」ことを押し付けてしまっていたようだ。
「お母さんは短い人生、もう誰かのために我慢して生きるのは嫌なのよ。
あんたは自分の好きなことをして楽しく生きてるかもしれないけれど、
お母さんはあんたの言う事を聞いて、なんで我慢しなくちゃいけないの?
フェアじゃないじゃない。あんたはいろんなことをして、いろんな人とあって、
色んな情報を得てるかもしれないけれど、お母さんにとっては、
テレビは大事な情報源であって、楽しみでもあるのよ」
父が去年の末亡くなるまで、
母はずっと家族のため、そして父のための人生を送ってきていた。
目が不自由だった父の足にもり、手にもなった。
そして私たちが困らないようにと、いつも先まわりして色々
助けてくれた。
父の看病が終わると同時に
母はある意味、やっとこ「自分」の人生と向き合うときが来たのだった。
それなのに、今度は私が赤ちゃんを連れて実家に帰ってきてしまったものだから、
母はまた 「自分」の人生を抑えて、私やあうらのために時間を割いてくれてる。
もちろん、かわいい孫といれる時間と言うのは母にとってもうれしいことだったり
心の支えではあると思うけれど、
そうじゃない面もあるんだと思う。
私は少し、母のやさしさに甘えすぎていたなと反省した。
そして何より有害なのは、テレビの悪影響ではなくて
私が私の考えを押さえつけてしまっているという
母に対ししての「ストレス」であったと思ったのだった。
一緒に暮らすことというのは
お互いへの尊重があってこそ。
尊重というのは何かと思ったときに
私から出た答えは
「相手が大事だと思っていることを大切にすること」であった。
それは初めて訪れた異国の地でも同じ事。
そこで生きている人の文化、宗教、食べ物
そういったものを大切にすることは
とても大事なことだと私は旅を通して感じたことだった。
それは近い存在である母と私においても
同じ事。
一晩寝て
出た答えを
朝ごはんのときに 母へ話した。
「お母さんが好きなように生きることが大事だから、
テレビも我慢しないで見ていいからね。
ただ、あうらちゃんがそばにいる時は、テレビにあまり近づけないでね」
すると母は、
「あんたが母親なんだから、娘がテレビの近くにいたら離れさせるようにしなさいよ。
人に頼らないで。でもお母さんは見たい番組がある時は自分の部屋でテレビを見るからいよ。」
とのこと。
ほ。
少しだけごはんがおいしく感じられました。
他にもテレビ以外に、私と母の生活において色々と価値観が合わないことは多々あって、
そこの話し合いもついでに済ませ、
なんとか和解への道を辿りました。
私は今回の喧嘩で
嬉しかったことがある。
母が 「自分の人生を歩みたい」 と 強い意志で突き進んでいること。
私は小さい頃から、母は家族の犠牲になっているのではないかと
不安に思っていた。
自分のことを優先に出来ない、やさしすぎる人柄なので、
これからはどんどん、自分のために生きて欲しいと願うのだった。
そのためにはまず、私がちゃんと自立しなくては
いつまでたっても母が心配してしまうので、
私はがんばっていかなくちゃ。
せっかくこの世に生まれてきた命として、
ついこの間生まれたばかりのあうらも
58歳である母も
等しいものなのだから。
貴重な時間を、ぜひ母らしく生きて欲しいと思う。
そして私はそんな母の生き様を見たい。
頭でっかちになると
ついつい本当に大事なものを見失いがちだ。
私はすぐ偏ってしまうので
そこをいつも気がつかせてくれる母に
感謝したいと思う。
たまにはお互いの気持ちを言い合わないとね。
たとえ価値観が違っても、センスが違っても
好きなものや嫌いなものが違っても、
その人が、好きなもの、大事にしてることを大切に思えるという力は
愛だなって思う。
そこを否定したり、比べたりすると
おかしなことになる。
でも 自分が大事にしてることが
誰かを傷つけていたり、
環境を汚染していたり、
未来を暗くするようなものだったら、
それは考え直す必要があるんだと思う。
ちなみにトップの写真は
インドのリシケシにて。
子ザルに足を噛まれ、
それを見ていた家族が 暖めたギー(ヤギの乳)とターメリックを混ぜて手当てをしてくれました。
ありがとうの記念写真。
この大家族で
ひとつの部屋で暮らしてました。
とても暖かい暮らしだったなあー。
空色カミュ ホームページ
http://sorairokamyu.jimdo.com/
Posted by カミュ at 23:12│Comments(2)
│大事なことって何だろう?
この記事へのコメント
Posted by コラボ
at 2011年02月22日 08:49

コラボさん
ありがとうございます。
本当に身近なところからだなって日々思います。
「思いやりの心」って、大事ですよね。
私も親になってみて初めて気がつけたことが沢山あります。
コラボさんなんて私よりも更にいろんな体験をされてることと
思います。色々、お話きかせてくださいね☆
子育て、がんばりましょう~~!
ありがとうございます。
本当に身近なところからだなって日々思います。
「思いやりの心」って、大事ですよね。
私も親になってみて初めて気がつけたことが沢山あります。
コラボさんなんて私よりも更にいろんな体験をされてることと
思います。色々、お話きかせてくださいね☆
子育て、がんばりましょう~~!
Posted by カミュ
at 2011年02月22日 21:02

なんだか、読んでいてジーンときました・・。
『おもいやり』って大事よね。
たとえ、親子であっても血のつながりがあっても
なくても、目に見えない言葉に出来ない『おもいやり』
があるんだな~。私、意外と子供のころから自分のしたいように
なんでもやってきたんだけど、結婚して親になったら
いろいろわかってきた事があるもの。
何て言ったらいいのか、文章に出来ないけど
カミュさんの気持ちが伝わってきました。
カミュさんのママも、きっとそんなカミュさんとあーちゃんの事が
大好きだよ。子育ては親育てとも言うもんね。
私も、子育て真っ最中で修行中の身。
カミュさんに負けないように、がんばろう(>_<)